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この頃読んでいるのが、古田紹欽「人間に宗教はなぜ必要か」。
4分の3ほど読んでの感想なんだが、宗教とは人を導くものであるという事だ。
何をいまさら。と思われるだろうが、この本では宗教は自分の中にあればいいものであり、わざわざ宗教をしに施設などに通わなくていいと書いてある。
仏教学者であり、禅思想家の著者が言うなら、あながち間違いではないだろうし、俺の自分教という実体験からもそう言える。
人を導くものであり、宗教的な高揚感や連帯感は、実は本題ではないのだ。
空念仏(からねんぶつ)の話も出てくるが、念仏を唱えるだけでは何もならない。
そこに救いを求める事で、念仏は本来の意味を持つ。
そうすると「なむあみだぶつ」は画期的であると同時に、本質的でもあるんだな。
救いに焦がれて一心に唱えれば、長いお経だろうが「なむあみだぶつ」の一言だろうが、キリスト教が日本に土着し変化した「おらしょ」であろうが、全て正しいんだ。
そして、自利利他の考え方。
自分の利益も大事だが、他の人々の利益にもつながるような事を、していこうというもの。
これは滅私的な事ではなく、自分にとっても利になる事が本質だ。
なぜか宗教がからむと、財産全部寄進しろとかいう話になるが、そういう宗教はその時点でまがい物である。
モノを得る事で救われるという考え方は、拝金主義、物質主義の現代日本人にはピッタリくるから、ここらはあまり意識されずにいると思うが、根本的におかしい。
自分の為に得る物が欲しいのに、金を出した分だけ幸せになるわけ無いよな、財産は確実に減っていくわけだから。
だから、宗教への布施というものは、自分の身の丈に合った額でなければいけない。
こういう話をしてると、じゃぁ何も出さずに自分の都合のいい時にだけ、神社や寺に参りお守りを買って賽銭入れればいいだろ?別に身の丈に合ってるし、などというバカガキが出てくる。
しかし、神頼みというのは頼みという行為の具現化なんだ。
努力と頼みというのは根本的に違う。
何も努力もせずに、だらだらと生きてる人には一生わからないだろうが、神頼みなんて効く訳がない、現世利益を約束してくれるものじゃない。
利益とは自分の行動の結果であり、神仏への祈願とは行動への精神的な支えなんだ。
昨日、スクワットをしたんだが、はじめて95kg×10回出来た。
この時に力を込める行動が結果を生む行為であり、この時に、
自分は出来る!昨日職場でコケてヒザ痛いけど、死ぬほど苦しむ!こう決意する事が精神的な「頼み」なんだ。
これまで何もせずにいきなりジムに行き、死ぬほど苦しむ!なんて言って上がるもんではないだろ?
ヒザが痛いから、大事を取って今日は80kgで行こう、なんて弱気になったら自分の記録は超えられない。
バイクの両輪のように、心と体を意識していかなければいけない。
今時の奴らは自分の感情しか意識できない事が多い。
もっと内的にならなければいけないと思う。
散策にも適した秋。
自分の救い方がわからない人は、近くの寺などに出向き、その場の雰囲気に触れるのもいい。
宗教施設というものは、昔から人を守る形式で建てられているからだ。
旅先で史跡を巡ると、必ず出てくるのが社寺なので、知らず知らずに結構な数を見て回ってきた。
朝の誰も居ない境内に一人歩き、夕暮れの回廊をゆくと、信仰心のない俺でも肩の力が抜け安心できるから不思議だ。
宗教に利用される事無く、しかし毛嫌いする事も無く、理解していきたい。
4分の3ほど読んでの感想なんだが、宗教とは人を導くものであるという事だ。
何をいまさら。と思われるだろうが、この本では宗教は自分の中にあればいいものであり、わざわざ宗教をしに施設などに通わなくていいと書いてある。
仏教学者であり、禅思想家の著者が言うなら、あながち間違いではないだろうし、俺の自分教という実体験からもそう言える。
人を導くものであり、宗教的な高揚感や連帯感は、実は本題ではないのだ。
空念仏(からねんぶつ)の話も出てくるが、念仏を唱えるだけでは何もならない。
そこに救いを求める事で、念仏は本来の意味を持つ。
そうすると「なむあみだぶつ」は画期的であると同時に、本質的でもあるんだな。
救いに焦がれて一心に唱えれば、長いお経だろうが「なむあみだぶつ」の一言だろうが、キリスト教が日本に土着し変化した「おらしょ」であろうが、全て正しいんだ。
そして、自利利他の考え方。
自分の利益も大事だが、他の人々の利益にもつながるような事を、していこうというもの。
これは滅私的な事ではなく、自分にとっても利になる事が本質だ。
なぜか宗教がからむと、財産全部寄進しろとかいう話になるが、そういう宗教はその時点でまがい物である。
モノを得る事で救われるという考え方は、拝金主義、物質主義の現代日本人にはピッタリくるから、ここらはあまり意識されずにいると思うが、根本的におかしい。
自分の為に得る物が欲しいのに、金を出した分だけ幸せになるわけ無いよな、財産は確実に減っていくわけだから。
だから、宗教への布施というものは、自分の身の丈に合った額でなければいけない。
こういう話をしてると、じゃぁ何も出さずに自分の都合のいい時にだけ、神社や寺に参りお守りを買って賽銭入れればいいだろ?別に身の丈に合ってるし、などというバカガキが出てくる。
しかし、神頼みというのは頼みという行為の具現化なんだ。
努力と頼みというのは根本的に違う。
何も努力もせずに、だらだらと生きてる人には一生わからないだろうが、神頼みなんて効く訳がない、現世利益を約束してくれるものじゃない。
利益とは自分の行動の結果であり、神仏への祈願とは行動への精神的な支えなんだ。
昨日、スクワットをしたんだが、はじめて95kg×10回出来た。
この時に力を込める行動が結果を生む行為であり、この時に、
自分は出来る!昨日職場でコケてヒザ痛いけど、死ぬほど苦しむ!こう決意する事が精神的な「頼み」なんだ。
これまで何もせずにいきなりジムに行き、死ぬほど苦しむ!なんて言って上がるもんではないだろ?
ヒザが痛いから、大事を取って今日は80kgで行こう、なんて弱気になったら自分の記録は超えられない。
バイクの両輪のように、心と体を意識していかなければいけない。
今時の奴らは自分の感情しか意識できない事が多い。
もっと内的にならなければいけないと思う。
散策にも適した秋。
自分の救い方がわからない人は、近くの寺などに出向き、その場の雰囲気に触れるのもいい。
宗教施設というものは、昔から人を守る形式で建てられているからだ。
旅先で史跡を巡ると、必ず出てくるのが社寺なので、知らず知らずに結構な数を見て回ってきた。
朝の誰も居ない境内に一人歩き、夕暮れの回廊をゆくと、信仰心のない俺でも肩の力が抜け安心できるから不思議だ。
宗教に利用される事無く、しかし毛嫌いする事も無く、理解していきたい。
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