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さて本題に入るんだけど、ハンドポケットがムカつく!
とは言っても冬場の俺は原チャから降りて歩きに入るとスグにハンドポケットをする、バイクでは手袋が必要だけど、歩いてる時は素手で寒いからだ。
だからハンドポケットにも良し悪しがある。
悪いハンドポケットの例はかっこつけのハンドポケットだ。
俺の会社では小隊長までが作業服を着ている、なのに遠目で小隊長・小隊副長の区別が付く。
これは偉そうにしている連中の姿勢やしぐさが似通っている為である。
その姿勢はふんぞり返り型と背虫型に分かれている。
大まかにだが年を取るほどふんぞり返る傾向が強くなるのだが、これは加齢による内股の筋肉の低下が主な原因にあると思うし、若い背虫は自分への自身の欠如から身を縮めるという精神の動きによるものと思える。
それと同じように偉そうにする・恰好をつける姿勢がハンドポケットなのである。
ランナー氏を含め中高年に多いんだけど、片手作業をしている時に無意識に左手がハンドポケットをする行為を良く見る。
この無意識というのが非常に危ない物というのは皆も理解しているところだろう。
きちんとしたしつけをされた人なら子供の頃によく言われたと思うが、
「外でもいつもしている癖が出るから、誰も見てなくてもちゃんとした食べ方(など)をしなさい」
というものだ、人間は自分が意識している以上に無意識の行動が多い。
それが中高年になると自律のたがが外れ、無意識のふんぞりハンドポケットになるのである。
こういう無意識なバカにつける薬は無いので、あまり関わらないようにしている。
その人の後ろを歩いてみて、綺麗だと思える歩き方をしていればいい人間だと思っていい。
遠くから真っ直ぐ立っているように見え、近づい見ても体のどこにも力が入っていない自然体であれば、精神の安定した人格者だろう。
人の精神は行動によって周りの人へ漏れる。
俺はこういった漏れを制御出来ているかどうかで人を見極めているんだけど、真っ直ぐ生きている人間は驚くほど少ない。
もちろん俺自身もそうありたいと思いながら、なかなか心が落ち着かないんだけど。(^^;
ハンドポケット=かっこいい、というスタイルの発祥はスーツ文化なんだと思う。
片手にアタッシュケースもう片手はズボン、で颯爽と歩くビジネスマン、トレンチコートに両手を突っ込んで夜の雨にうたれる男、こういったイメージがこびりついている。
だから、ダサい作業服を着たチビオッサンですら、片手ポケットをして下層労働に従事するのだ。
またもやランナー氏なんだけど、彼は最近自分のガリへのコンプレックスが高まってきたらしい。
マラソンランナーとして最適化された体であるのに自意識では劣等感を抱いてしまう、これは作業服社会へ迷い込んでしまったスーツ文化適合者の悩みである。
ランナー氏がスーツを着る職業に就いていれば、彼の自尊心は傷付く事は無いだろう。
なぜならスーツはシルエットをその人の最大幅に均質化する衣装だからである。
これは現代の鎧といってもいい装備で、貧弱な肉体ほど恩恵を受けるのだ。
薄い肩は型くずれしない縫製によって守られる。
胸板がぺったんこでも大きく開襟している襟で逆三角の視点が生まる。
出っ張った腹も下に行くほど緩やかに広がるシルエットにより自然なラインに見える。
垂れた尻も少し長めのすそで隠す事が出来る。
細い足は上半身の貧弱さを補う為により細いスラックスにしても良いし、脚の細さを隠す為に少しゆったりした物を選んでもいい、いずれにせよ関節など生の肉体は見えないようになっている。
以上はスーツの利点だが、これがマッチョには完全に逆に作用する。
ジムで見るデカイ人がスーツを着て出て行くのを時々見るがまさに肉団子。
肉体の一番太いところに均質化する、スーツの特性がデメリットになってしまう。
太い筋肉のピークと関節の細さのメリハリで生まれる筋肉モリモリなシルエットが、スーツの筒により消えてしまうのだ。
スーツとは逆に、動き動きやすさの為に補強が入っていない作業着では、スーツよりも肉体の弱点が見えやすいということになる。
一時期流行ったキャミソールは女性の夏着として定着したが、これもスーツのような均質化作用のお陰で「かわいい」と受けた訳だし、ルーズソックスも同じ、田舎のヤンキーが着るジャージ・スエットもそう。
日本では肉体の貧弱さ奇形さを隠す為の衣装こそ、大衆着であると言える。
人は裸では生きられない。
肉体の表現というのは、衣装を着用した上でのトータルで決まる。
これから夏に向けて更に薄着になっていき、個々人の肉体の特性が強くなる。
ウエイトトレーニングやダイエットで体を変えることが一番の近道だが、それだけでなく自分の肉体の特性に合った服を見つける事、ハンドポケットや背虫などの癖の矯正も必要だ。
ピタピタシャツにスパッツの変態な恰好で歩き旅をする俺のファッションは、どう矯正すればいいんでしょうか?(泣
本日のお題は題名の通りだ、いつも言ってる事だけどね。
この間の旅の間にもよく思考にのぼったんだが、モノには能動と受動の二種がある。
俺が思ったのは、能動的な趣味の方が面白いという事だ。
歩き旅をしていると、何でこんなにつらい思いをしなければいけないんだろう、と思うことが多々ある。
趣味のはずが、一種苦行になっているんだな。
そりゃ止めればいいんだけど、そういう訳にもいかんのは他の事じゃ満足できなくなっているからだ。
最近まで旅とはバイク旅だった、実はこのバイク旅とはとても受動的な旅である。
バイク旅をした事のある人なら判ると思うが、実は右手をひねるだけの気楽な毎日である。
ほとんど動かないから、体がなまる程である。
これは車の旅でもそうだし、修学旅行しか団体旅行に行った事のない主観だが、パックツアーなんかもそうだろう。
自分の働き以外でまかなえる部分が多くなるほど、受動的な旅といえる。
他の趣味でもそれは同じ。
ヲタと呼ばれる人間の中にもさまざまな嗜好の持ち主がいるが、ほとんどが受動的オタクだろう。
同人誌を作ったり、コスプレをするような人間よりは、消費をするだけの人間の方が圧倒的に多いはずだ。
俺が自分をオタクではないと思うのは、この面ではとても受動的な人間だからだ。
毎日アニメを見るくらいで、自分から何かを生み出す行動はしない、あくまでオタク文化の消費者でしかないんだ。
この消費者文化というのが、実は受動的な現日本の基本にあると思う。
日本では律令制の時点で、貴族は労働をするものではないという概念が生まれたように思う。
恋を語らうような男は筋骨隆々の汚い労働者ではなく、肉体的に弱々しげでないといけないという文化である。
この思想が根底に流れている事も、日本男子のマッチョ嫌いの一因のよう思える。
その頃から高貴な人間とは不労所得を得ることのできる身分にいる者、という概念がある。
これは3K労働者への蔑みとして現在も続いている。
そしてこの底流にあった感覚が、こないだまでのバブル時代で、現代日本人の特性として完全に定着したと思う。
金を出すこと、モノを買うことで自身の欲を満たすことこそが、全てにおいて優先されるようになった。
商品・サービスとは受け手でないと享受できないものである、という概念が消費社会の根底にある。
人々は必死になってサービスを受けたがるのである。
これこそ受動的人間の本質で、射幸心という人間の最も醜い本性につながるものだと思える。
原因としてはキリスト教のように、他者への愛を説く宗教が無かった事などイロイロあるだろうが、こういった行動規範の無い社会で育ってしまった事が、彼らの受動的な性質を形作った事は間違いないだろう。
自ら動き手にする事ではなく、手にした喜びしか見えなくなっているから、言われたままにまじめに仕事をしていれば、いい人間になれると勘違いするのだ。
確かに言われるがままに耐えれば昇進もさせてもらえるし、安定した収入もあてにできる。
それを生涯の誇りや美徳とするようになってしまっているのは、それが得だからだけでなく、非常に楽だからでもあるんだ。
金さえあればいい人間からすれば、趣味や生き様などは目に入らない。
なんで真面目に仕事をしないで旅なんかしたいの?と彼らは言うが、なんでそんな金にならない無意味な事をするの?と言いたいのだろう。
社会とか規律などまともな事を言う奴ほど、お手軽な自己顕示欲しか無い。
女が欲を満たすだけの大金を稼ぐという、とてつもなく能動的な作業を回避するためには、金持ちの男が必要である。
ゆえにセレブという概念が生まれた訳だし、それを遠望してきた未成年の女がそれを望むようになった。
男は金、これほど的を得た言葉はない。
ここで女を責めている訳ではないのは、女とは元々受動的な生き物だという事だ。
日本では社会的にもそういう育てられ方をしてきているし、生態機能として性行為を捉えても非常に受動的に出来ている。
歴史的な偉人に女が少ないというのは、能動的な行動を起こしにくいということも一因だろう。
男といえばどうだろう。
若い男はファッションに金をかけるが、中身の肉体はグズグズでも頓着しない。
金持ちのオッサンがする事といえば、車や宝飾品・女と酒に金をかけ、体をまったく使わないゴルフというスポーツで満足する。
これは受動的趣味の典型で、ほとんどの日本人はこういった生活に憧れているんじゃないかな。
というかこれ以外の趣味を見つけ出せないように、丹念に規格化されてしまっている。
俺が中高年が嫌いだというのは、この受動性しか無いつまらなさからくるものでもある。
3日後にあるセミナーの合戸選手は48歳だから完全に中高年だけど、真剣にボディビルに打ち込んでいる凄い人だから、わざわざ会いに行き何かを得ようと思うんだ。
そこらの何もしていないオッサンが偉そうにふんぞり返っていても、ただのバカでしかないので完全に無視するのだ。
俺から見て能動者であるかどうかが、人間に値するかの基準なんだな。
最後に自分の趣味を能動率としてなんとなく数値化してみる。
基準値は歩き旅の100だ。
アニメ鑑賞 0
読書 0
PC作り 25
クルマ旅 30
プラモ作り 30
仕事 40
バイクいじり 40
バイク旅 50
減量 50
歩き旅 100
ウエイトトレーニング 100~
日本一週歩き旅 200以上?
数値化すると、日常では楽な事しかしないのが良くわかった。
それから減量は辛くても、トレーニングのように自ら動くものよりスコアとして低い。
能動的であり続ける方がより辛いものである。
これからも能動的な趣味を続けていきたいものだ。
でも、推定200以上の日本一週をしてしまったら、更に基準値が上がるんだよな、どこまで辛い事して遊ぶんだろ・・・。
今からとても不安である。(爆
世の中のひずみがクローズアップされ、ほとんどの既得権益が批判に晒されている。
政府しかり大企業しかりだ。
俺にとっては何の関係も無い。
元々政府に頼って生きている訳ではないし、規制緩和によって金融業界の新たな商材となったFXなどの賭博にも手を出していない。
そして一番大きな例として、危機に対しての意識を忘れていなかったという事がある。
派遣社員・期間工が職を失った瞬間に家を追われ、食事にも困る状況というのが理解できない。
期間工という将来の無い仕事をしているのなら、職に頼らない備えがあってしかるべきではないのか?
カネを使えば何かが得られると思い、それにより生きてる実感を得る、そんな空しい人生は捨てるべきだ。
自分の存在すら規定できないでよく生きていると思えるな。
俺はウエイトトレもプラモも好きだが、一番好きなのは自分自身である。
だから何かがあっても生きる事に困るのは避けたい。
借金をして判ったんだけど、ただ生きているだけ金は使わない。
給料のうち2万だけ残して全部借金に回していた時期があるんだけど、その1年間は何も出来なかった。
でも生きていた。
俺のように住む家がある場合の2万残しだろうけど、一人暮らしだって基本は変わらない。
生活費以外は使わなければいい。
そういう厳しさを身に付けると、己の嗜好が判ってくるんだ思う。
その後の毎月10万返しの数年では、バイクのカスタムやチャリなどにはまった。
借金以外は全て趣味に費やした。
ここで何かをしなければ自分の好きな事すら無くなると思ったんだ、必死になってバイクをバラした。
借金以後の俺はどうだろう。
大きな目標の旅以外に、ライフワークにしようとウエイトトレにはまっている。
しかしその他は何も無し、オシャレ服も買わないし人と遊ぶ事も無い。
何かを成すに人生は短かすぎる。
が、自分の欲を満たす生活をすれば、非常に長く険しいものになる。
今朝、職場から帰る時に信号待ちで停まったバスを見た。
昇降口のガラスに張られていた「岡山~東京」の張り紙。
今年の2月に「九州の歩き旅」から乗り継いで乗って帰ってきたバスだ。
たかだか1年弱の過去の事だけど、数年前の旅のような感覚を覚えた。
思いのほか今年は沢山の事があったのだろう。
年を経るごとに年月は早く過ぎると人は言うが、俺は今年が一番長く熱い一年だったと云うよ。
年相応という常識に甘えてないで行動すればいいんだ。
いくつになってもこの世界に驚いていたい、好奇心を満足させたい。
来年はもっと長くもっと楽しい年になる。
そうするのは自分自身。
今日、職場で読了した本多勝一さんの「日本語の作文技術」を読んで文筆欲が湧いて長文を書いてみたんけど、完全に技術不足・認識不足で空回りしてしまった。
情けない事だが文筆欲は収まらない。
もっと判りやすく、自分の思ってることがきちんと伝わるような文章を書きたい。
こんな調子でしばらく駄文が続くので、読んでて恥ずかしくなってきたらしばらく来ない方がいいだろう。
だって、書いてる本人が赤面するくらいだからな。(自爆
昨日の記事は広範のネタを詰め込みすぎたので、何を主に書いているのか判りにくかったので、その中の主題の一つの「仕事誇り」の原因を書いてみようと思う。
昨日はカネのために働くなら精神は必要ないと書いた。
これには反論が多いだろう、なぜなら働く事は辛い事であり、楽しくもやりがいもある事でもあるからだ。
社会貢献をしていると思う事もあるから、自分の居場所としては非常に居心地がいい。
しかし、仕事とは何なんだろう。
近代つまり明治以前の日本の場合、一番多いのが農民であった。
農民は自分が食べる為に畑を耕す。
それによって人々が飢えずに生きていけるのだから、これは立派な仕事である。
では武士はどうだろう、彼らは為政者としての地位を生まれながらに有するが、殿様のウンコの処理だけの家柄や、「武士の一分」でも出てきた毒見だけの一族なんかもいる。
彼らは政治を司り人々の生活を守る立派な職業だが、そればかりではない事がわかる。
商人は今のようなビジネスマンとは違い、税金もゆるく江戸時代には非常にボロい商売であったが、彼らが居なければ物流は止まり都市生活は成り立たなかった。
手工業者らは商人のような華々しさも無いし、武士のような大それた意識も持たないけど、農民同様に社会の根底を支える立派な仕事だ。
現代日本から昔の日本を俯瞰してみて、仕事誇りをするような人々が見えるだろうか?
皆が生きる為に何世代にもわたって同じ仕事を続ける。このような人生に誇りを持ち、俺様は農民だから偉い!俺のやってきた事は俺の人生に悔いは無い!なんて言われても、「なるほど」、ぐらいにしか思わない。
言い方は悪いが、現代人から見れば彼らは社会を構成している歯車である。
では現代日本を後世の人々が見たらどうか。
一流企業の社員だからと言っても誰の名前も知らない、俺たちが昔の殿様の名前を知らないように。
その程度の歯車を誇ってどうすんだ?
コレが一つ目の結論だ。
ここからがカネの問題な。
出家というのは仏教の仕組みの一つで、その人を死んだとみなし家族や財産や地位を捨て、俗世を離れ仏門に入る事である。
仏教とは最終的に悟りを開く事が求められるが、それにはカネは必要ないどころか邪魔な存在なんだ。
カネはなぜ悪なんだろう。
これは現代人の方がよっぽど詳しいよな、自分の浪費癖に辟易している人も多い、俺もその一人である。
俺は射幸心が無くギャンブルの類は一切した事が無い、宝くじですら買った事が無い、母親が死んだら遺産は一切要らない。
何も持たないで生きる「清貧の思想」をしている訳ではないが、潔くない美しくない生き方はしたくないと思っている。
かなりの偏屈者であるが、そんな俺ですらカネの魔力には逆らう事が出来ない。
カネの力を端的に現した言葉は、「カネで買えないものは無い」だろう。
それほどまでにカネは強い。
一流企業や高い職位、自己顕示欲などの欲は全て間接的・直接的にカネが根底にある。
後先は別として現代の全ての行為には金が絡む。
だから、カネという概念を直視しない人々は踊り続けるんだ。
勿論、カネカネとゾンビのようにうごめく訳ではなく、ちょっとした射幸心やほんの出来心が頭をもたげる。
そして人の本質である慣れにより、カネへの執着は肥大していく。
老人の金への執着を見た事があるだろうか?
あのおぞましい姿は、カネに踊らされた人生そのものである、
精神的支柱で自己を規定しなかったせいで、日に日に肥大し長い年月をかけて化け物になったのだ。
だからカネの臭いが少しでもする事を我誇りをしてはいけない。
自分を飾り優位に見せる全てがカネであるという事実。
カネを払えば済むという虚構の世界に住むべきではない、真実を見つめると自分の弱さや愚かさが見えてくる。
そこから始める人生こそ、本当の自分モノなんだよ。
昨日の続きを書く。
好き勝手に生きると言っても、そのような人は少ない。
なぜ、こうなりたいと願う気持ちは叶えられないのだろうか。
心のままにやりたい事をすればいい、というのは事の本質を知っている人にのみ判る言葉だ。
既に何かをやり結果を出した人にのみ判る。
実は心とは不安定なモノだ。
ダイエットをしていても、つい、甘いものを買って帰ってしまう。
トレーニングを続けようと思っても、つい、疲れたので今日はヤメと思ってしまう。
これが心の本性だ。
それに対比して精神というモノがある。
精神のwikiは↓だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E
これによると精神とは、認識能力・意思能力・判断能力、または、理性・悟性・知性でもあるようだ。
心というものは認識力に欠け、意思も弱く、判断も誤る事が多いというのは、皆も経験的に知っているのではないかな?
俺も20歳の頃はそういう人間だった。
自分は意志が強いとありのままの認識をせず、何かをやろうと思っても意思は続かず、それが悪い人生だという判断が出来なかった。
心というものは、鍛え学び考えることで精神となっていくものなんだ。
大事を成す者にはまず天災が降りかかる、という事をどこかで読んだ、人は苦労をして大きくなる。
何もぜずにただ生きているだけの人間では、精神性というものは一生手に入らないものなんだ。
ここでちょっと話をそらす、これは勉強と仕事の話だ。
世の中には学歴や職位を誇る人間が多い。
彼らは努力をし、勝ち抜いてその地位を得たのだろう。
しかし、仕事誇りをする人間ほど生き方が軽薄で手垢にまみれた言葉しか吐かない事が多い。
なぜ?彼らは努力をして大きな仕事もしているのに。
彼らが勉強や仕事を頑張ってきたのは、日本という社会でそれを保護しているからで、つまり彼らには自主性というものが初めから存在しないんだ。
一流大学や一流企業は偉いという概念を日本中が認めてくれるから、彼らはそれを目指し努力できたんだ。
それに仕事というものは生きていくために必要な活動でもある、必ずやらなければいけない事でもあるので、仕事というものは強い精神を必要とするものではないんだ。
誰にとっても今の日常ほど楽な世界は無い、その先を目指し変革する精神の強さが無い人間ほど現状を誇る。
職場で虐げられたり、きつい労働に従事している場合はどう?と思うが、これは金の為に働くという事実によって精神力は必要無くなる。
賃金も無しに働いている人が居るのなら、それこそ強烈な意思があると言いたいが、それも将来にその仕事を継ぐなどの見返りがある場合がほとんどだろう。
仕事誇りをする人間は、仕事によりかかり社会という後ろ盾の前で、常識と言われる定型文をキャンキャン吠えているだけ、そこには誇り高い精神は無い。
そうそう、麻生総理が一番の好例だな、アイツのいう事に中身は無く、偉くなりたいという心のままにヤクザな態度をとるだけの小人物だ。
俺たちが精神を持つには誰かからの要望をこなすだけでは不十分だ。
自分の心のままにというのは、ここの問題でしかないんだな、まず誰の物でもない生き方を決める心ありき。
しかし、心のままに生きては目的を達成する前に揺れる心はくじけ、生き方も安易な坂道を下り、人と同じか社会が必要とするモノに作り変えられてしまう。
話は戻って締めに入るんだが、何かを成すには根本に心、そして行動する為の精神が必要だとわかってくれただろうか。
では心を精神に昇華させるには何が必要なんだろう、これはテクニックだ。
誰だって毎日の日課はある、では、なぜその日課は続いているんだろ?
自分にとって必要だから?片手間でもできるから?好きだから?
じゃ、新しい事に挑戦するものは大好きで必要性のあるものじゃないと続かないよな、片手間ではできにくいのでこれは除外。
ウエイトトレーニングで体を大きくしたくてもジム通いが長続きしない、そして明晰な目的意識を持つことが出来ていないから、疲れたとか仕事が忙しいという言い訳を考えてしまう。
本当にやりたい心があるのなら問題はテクニックで簡単に片付く、仕事が忙しいのなら仕事を変えればいいし、疲れて仕方が無いのなら遊びや夜更かしをやめればいい。
精神力を発揮する以前に、実はやりたいという気持ちしか持っていないバカが多すぎる。
精神とは認識・意思・判断能力。
心のままに出来ないと思い込む前に、事実を認識して判断しなければいけない。
その上で意志の力が出てくるんだ、最近ジムに通う前に1~2時間横になるのも、疲れを少しでも取って意志の力を発揮させるためのテクニックだ。
そのテクニックを生み出す為の思考も精神の一部であるし、テクニックにより克服した経験で精神力は自信を増す、こういう+のスパイラルにより精神は鍛えられる。
今年は終わり。
2009年皆が精神の必要性を理解し、成す人となる一助となれれば嬉しい。
家でケンタを食い、氷結ストロングを呑み、ブログを更新している20代最後のクリスマスイブ。
女なら首吊って死にたくなるな。(爆
俺の周りの人間を見てて思ったことを書こうと思う。
異動してきた30代前半の彼は、スノボーをやる人らしい。
最近はランナー氏や格闘家氏など、ストイックにトレーニングに打ち込む兄さんばかりだったので、スノボー君も案外やるのかと思っていた。
案の定その思い込みはくつがえされ、数年前までチョコチョコやってただけのスノボー歴らしい。
例えば俺がそういう人間だったとすると、今出来ているトレーニングを続け、将来の夢はボディビルコンテストに出る事、という人生を送るだろう。
これは日本人に多い考え方で、今出来ることを基準にして将来を見据えるのだ。
でも俺は違う、俺にはやりたい事があるけど、それは出来ることをやる事ではない、自分が出来ない事に挑戦し、やった事の無い事をやりとげる事だ。
先週ランナー氏と話したんだけど、
「今自分が持ってるモノって興味がないよね?」
と、意見が一致した。
今の記録、今の挙上重量は既に出来ることであり、この先に得るものではないんだ。
同じように、今やってる生活は既に実践している生活なので、この先追い求める生活ではないんだ。
スノボーをやり続ける人生は、スノーボーダーという人生でしかない。
俺はソレに満足できないから、ボディビルダーにもなりたいし、歩き旅をする人や、バイクライダー、前に書いたように政治や経営もしてみたい。
実は空を飛んでみたい夢もある、なんて贅沢な漢なんだろう、でも言ったらヤル!だから・・・。w
俺は俺としての人生を歩みたいから、自分の興味のある事は全てやりつくしたいと思ってる。
しかし、その道は険しい。
一から学びモノにするには数年~数十年の年月が必要だ。
だからスノボー君はスノーボードという過去の経歴でしか趣味を語らないのだし、世の中高年は年のせいにして挑戦する事から逃げる。
だが、その人生において完全に未知の世界に飛び込んで行った事があったのか?
何かをしたいという欲望は、全てにおいて優先されるべきではないのか?
イイ体になりたい気持ちが強いのならボディビルしかない。
強くなるには格闘技しかないし、速く遠くに行くのならマラソンしかない。
職場の3人は自分の欲望を肥大させた先に自分の人生を見出した。
しかし、イイ体になりたいというデブは自分の食欲に負け。
強くなりたいと願うガリは目先の酒やタバコで自意識を満足させる。
速くなりたいと思う心はキツイトレーニングに負け、車やバイクなどの小手先で出せるスピードに満足するようになる。
全てが逃げだと判っていても、新しい苦しい事には耐えられないように出来ている。
日本人は学校で作られた人格しか持たない。
画一的で自己主義で無く、利他的でもない。
テストを受けるにはテスト範囲の勉強をしなければいけないから皆が同じ事しか学ばない、これでは世界に一人だけの個性は認識すらされない。
かといって自分が受けたい教科を選べる訳でもないから自己的ではない、与えられた運命に満足するしかない。
しかしテストを受ける際には周りとの競争をするが、そこに他人の為という概念は初めから無いので利他の思想は生まれない。
今朝の仕事場で60を越えたじい様に、
「ロコンさんは若いのに悟っているねぇ、人のこともよく見てるし。」
と言われたが、こういうのは30前の漢なら考えなければいけない問題だし、人を見て学んで自分を高める事は日常化すべき習慣だと思うんだ。
俺は学校に作られたと思ってない人間なので、自主性が高く未だに勉強し続けられてるのだろうけど。
才能や家柄などで人生は決まるものではない。
まして受けた教育や育った社会などに決められるいわれは無い。
俺たちは好きに生きるべきだ。
ただ、好きに生きる事もイロイロある。
今日は好き勝手に生きられない人を定義するだけでおしまいにする。
次回は現実問題をふまえて書いてみようと思ってる。
じゃ、また。
出発日決定! 2010.4/12
しょうたび!
正太郎の日本一周歩き旅
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